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毒父母へ、私の記憶

貴方を「お母さん」と呼んだことは一度も無かった。
いつも「ママ」と呼んでいた。
いや、呼ばされていた。
私の記憶には、幼い頃3歳か4歳の頃、三つ指をついてお辞儀をするもんだと言われ、それを強制されていた。
それを、貴方は「子供なんだから、するもんだ」と言ってきた。
それが、私の一番古い記憶だ。

アルバムはあるが、それは火事になった時に燃えた。
それまでは、そのアルバムを見せられ「この時は、こうだった」とか「ああだったけど、お前は本当にバカで情けない」等と言われ続けられていた。私の頭には、その言葉の意味が分かって無かった。
どうして他人と比べられるのだろう。
それが不思議で不思議で仕方なかった。

それが、小学生の時。
アルバムを見せられ「この時は、こうだった」と言われた時、(ああ、また始まったか)と、うんざりしていた。
その度に聞いてくるからだ。
 「お前は、どうして駄目だったんだ?」
 「分かりません」
 「覚えてないのか?」
 「知りません」
 「まったく、お前は本当に大馬鹿だな」

その次の記憶は、母からよく聞かされていた。
 「あんたは橋の下に落ちていたから拾ったんだ。有難く思いなさい」
 「要らない子なんだから、いい加減に消えてよね」

思えるわけないでしょ。
あんたも、この男(パパ)も知らない。

海に飛びこんだのは、その時が一番最初だった。
だけど、すぐ浮かぶ。
それが嫌だった。
だけど、誰かに邪魔された。
 「今は、まだ泳げないぞ」って。

泳ぐために飛び込んだのではなく、消えたかったんだ。

その自殺行為は何度もあった。
どうやれば、消えれるのか。
中身のない頭で必死に考えていた。

小学校では虐めの対象になっていて、いつも虐められていた。
私が越境入学したから、余所者は出て行けと何度も言われた。
学校中の生徒や教師までの皆から言われ、唯一、それを守ってくれたのは5年生の時の担任だった。それまでは虐められては泣いての繰り返しの日々だった。
 「虐められるのは良いとは思わないが、それは君を見てるからだよ」

そう言われたけれど、バカな私は何も返事しなかった。
その先生は私の言葉を待つわけでも無く、そう言うと頭を撫でてくれた。
それは、今でも鮮明に覚えている。

友達も出来ず、作ろうという気も無かった私に、声を掛けてくれた女子が2人いた。
家に呼んでくれたけれど、それっきり行かなかった。
だって、その家にはテレビが置いてあり、おやつも食べていいよと出してくれたからだ。
こんなの親にどう言えば良いのだろう。
それが頭の中にあったからだ。

そして、もう一人の女子と映画館に行った事。
あれは友和&百恵の映画だった。
3回ぐらい、通しで観たっけ。
家に帰りたくなかった。
どうやって家に帰ったのか分からなかった。


外に出る時は必ず報告する事を義務付けられていたからだ。
 「誰と、どこで、なにをしていたのか」

そして、親が呼び出された時は、それに追加が加わる。
 「どうして、こうなったのか。謝るだけでは許さんぞ」から始まり、最後はお決まりの言葉。
 「よく考えて反省しろ。考えた事を言って合格したら、そこから出してやる」
そう言われ、押しいれに押し込まれてた。

だから、良い子の言葉を考えていた。
誰も教えてくれない。
こういう時は、どう言えば良いのか。

ただ、バカな私は、その言葉を使い回していた。
そんな覚えがある。

だけど、一度だけ違う言葉を言った時があった。
やってない事を「やってません」と言った時だった。
 「何を言ってる。お前がやったんだっ」
そう言われ、階段から突き落とされた。

そのせいか、50歳を過ぎた今でも階段のトラウマは消えない。
左脚だけ短くて、直ぐに躓く。
特にエスカレーターの下りは乗れない。
階段を見つけて、手すりをしっかりと握って下りる。
たとえ、近くに居なくても突き落とされるのは嫌だから。


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