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反省文と暗い場所が嫌いだった

名前  みね
性別  女
年齢  53歳
職業  パート主婦



 父へ。
 私が、どんな事をどのように思ってるのか知らないでしょう。
 なにしろ、他人に発言させる事は許さず、自分の欲しい言葉しか耳を傾ける事はしない人だから。
 知って欲しいと願う気持ちはないけど、書きます。

 2018年2月22日に逝った毒母には、その先日に思いをぶちまけました。
 だけど、私は許しはしない。

 あんた達が、私にしてきた事は消えるわけでは無いから。
 それでも毒母は他界し、四十九日と初盆も終えました。
 残るは毒父だけ。

 少しでも良いから、私は気が楽になりたい。
 そういう思いで書いています。

 毒母を「お母さん」と呼んだことは一度も無かった。
 いつも「ママ」と、呼ばされていた。
 私が幼い頃3歳か4歳の頃、三つ指をついてお辞儀をするもんだと言われ、それを強制させていましたね。
 それを、毒父は「子供なんだから、するもんだ」と言ってきた。
 それが、私の一番古い記憶です。

 アルバムはあるが、それは火事になった時に燃えました。
 それまでは、そのアルバムを見せられ「この時は、こうだった」とか「ああだったけど、お前は本当にバカで情けない」等と言われ続けられていたけれど、どういう思いで言われてたのですか?
 私の頭には、その言葉の意味が分かって無かったです。
 どうして他人と比べられるのだろう。それが不思議で不思議で仕方なかったのです。
 それが、小学生の時。
 アルバムを見せられ「この時は、こうだった」と言われた時、(ああ、また始まったか)と、うんざりしていた。
 その度に聞いてきましたよね。
 「お前は、どうして駄目だったんだ?」
 「分かりません」
 「覚えてないのか?」
 「知りません」
 「まったく、お前は本当に大馬鹿だな」

 その次の記憶は、毒母からよく聞かされていました。
 「あんたは橋の下に落ちていたから拾ったんだ。有難く思いなさい。要らない子なんだから、いい加減に消えてよね」

 その当時、こう思ってました。
 思えるわけないでしょ。 あんたも、パパも知らない。

 海に飛びこんだのは、その時が一番最初だったんです。
 だけど、すぐ浮かぶので、それが嫌だった。
 それが、「今は、まだ泳げないぞ」って誰かに邪魔された。
 泳ぐために飛び込んだのではなく、消えたかったんだ。
 その自殺行為は何度も起こした。どうやれば、消えれるのか。中身のない頭で必死に考えていた。

 小学校では虐めの対象になっていて、「越境入学した奴は、余所者は出て行け」と何度も言われたのを知っていましたか?
 学校中の生徒や教師までの皆から言われ、唯一、それを守ってくれたのは5年生の時の担任だけでした。それまでは虐められては泣いての繰り返しの日々だった。
 「虐められるのは良いとは思わないが、それは君を見てるからだよ」
 そう言われたけれど、バカな私は何も返事しなかった。だけど、その先生は私の言葉を待つわけでも無く、そう言うと頭を撫でてくれた。それは、今でも鮮明に覚えています。

 友達も出来ず、作ろうという気も無かった私に、声を掛けてくれた女子が2人いました。
 一人の女子は家に呼んでくれたけれど、それっきり行かなくなった。
 だって、その家にはテレビが置いてあり、おやつも食べていいよと出してくれたから。
 こんなの親にどう言えば良いのだろうと、それが頭の中にあったから。

 そして、もう一人の女子と映画館に行った事。
 あれは友和&百恵の映画だった。
 3回ぐらい、通しで観たっけ。家に帰りたくなかったから。どうやって家に帰ったのか分からなかった。
 外に出る時は「誰と、どこで、なにをしていたのか」と、必ず報告する事を義務付けられていたから。
 
 そして、親が呼び出された時は、それに追加が加わる。
 「どうして、こうなったのか。謝るだけでは許さんぞ」から始まり、最後はお決まりの言葉でしたね。
 「よく考えて反省しろ。考えた事を言って合格したら、そこから出してやる」
 そう言われ、押し入れに押し込まれてた。
 だから、良い子の言葉を考えていた。
 誰も教えてくれない。こういう時は、どう言えば良いのか。
 ただ、バカな私は、その言葉を使い回していた。そんな覚えがあります。

 だけど、一度だけ違う言葉を言った時がありました。
 やってない事を「やってません」と言った時だった。
 「何を言ってる。お前がやったんだっ」
 そう言われ、階段から突き落としてきたのを覚えてますか?
 そのせいか、50歳を過ぎた今でも階段のトラウマは消えないんです。
 左脚だけ短くて、直ぐに躓く。
 特にエスカレーターの下りは乗れない。階段を見つけて、手すりをしっかりと握って下りる様にしないと駄目なんです。
 近くに居なくてもテレパシーを使って突き落とされるのではとビクついてるのです。
 
 中学校時代、私はいつも一人だった。
 一人ぼっちには慣れていたのに、中学2年の時、誰かが声を掛けてきたのです。
 「何、百面相してるの?」
 「ねえ、聞こえてる?」
 その声で、そっちを窺い見ると2人の男子が私の顔を覗いていました。
 「面白いねえ」
 誰にも声を掛けられず3年間を過ごすものだと思っていた私にとって、その男子2人は稀有な存在であり、貴重だった。
 室内履きを隠されたり、教科書を隠されたり、破られたりしていた私に、誰が声を掛けてくるのか。
 本当に、私は驚いたんです。

 そして、アルバムの話は中学生、高校生になっても続いていましたよね。
 でも、高校生になると何百回も聞かされていたお蔭で頭の中に蓄積されていたので、なんとか躱していたのです。
 「覚えてないのか?」
 「よく分からないのですが、どうしてでしょう?」
 その言葉に、毒父は、しょうがないなと溜息を吐き、あたかも自分の話をよく聞けよという前提での自慢話だった。
 どうして自慢話をしてくるのですか?

 毒父が居る時の夕食時は、仕事の事を話してきましたね。
 それは自慢話から始まり、愚痴で終わってました。
 そんな話を聞かされ、お前はどう思う?と振られても困っていた。
 毒母に振る時もあり、毒母は何とか返していたようでしたけど、私には無理でした。
 食事は、いつも一緒に食べるもんだと言われ続け、帰りが遅くなる時は安らぎを感じていた。
 良い子ちゃんの私の言葉に満足した毒父は、御機嫌になり酒を飲んでいましたね。
 毒母は身体が弱いのもあり布団に寝ている。
 そんな印象があり、私にとって家は家でなくなっていた。

 高校入学の時、あまりにも成績が振るわないのもあり塾に行かせられたが、付いて行けるわけもなく、直ぐに辞めた。そんな私に、家庭教師を付けてきましたよね。
 「良い所のお嬢さんで頭もよく礼儀正しく優しい」
 毒父母の言う、そんな家庭教師はお姉さん的な存在だった。
 玄関とキッチンの中間にある部屋で、教えてくれていた。 
 毒母が耳を澄ませて聞いてるのは分かっていました。

 分からない箇所があっても、分かりませんとは言えなかった。
 言ったら、家庭教師が帰った後にお仕置きがくるから。
 「どうして分からないと言うの?」から始まり、「あんなに丁寧に教えてくれてるのに分からない所があるだなんて、あんたはバカか」と、よく言われていたのは何故ですか?
 だから何も言えないでいたんです。
 その女性は根気よく教えてくれました。
 そのお蔭で、何とか無事に高校を入学出来た私に掛けてきた言葉は、これでしたね。
 「こんな底辺の高校なんて、学校じゃない」
 「どうして進学校はダメなんだ。でも浪人だなんて、それこそ体裁が悪い。良いか。どこの学校に行ってるのか、誰かに聞かれても答えるなよ」
 「やっぱり、橋の下で拾った子はダメな子なのね」
 「こうなると、下の子に望みを掛けるか」

 そう、私には4学年下の弟が居ます。
 居るのだけど、お互いに姉弟として見てこなかったし、話しもしてないので、姉弟という概念が薄い。
 無いに等しいのです。

 私が進学した高校は私立高校で、小学校からの持ち上がりが何人かいるが、多くないので我慢出来るだろう。
 そう思い、3年間を過ごしたのです。
 それでも、気持ちが違っていた。
 自分から学校生活の事を家で話す事は無かった。
 公立や進学校では毒父母のスパイがいるので筒抜けになるが、この学校ではならない。
 それでも、小学校からの持ち上がり組の内の一人が話しをしたのだろう。その親を経由して筒抜けになっていた。
 「どうして話さないの。あの子とは同じクラスなのに、何でも出来て親子仲良く話すって言ってるのに、どうしてあんたは話そうとしないの。なんでなのっ」
 そう言われ髪を引っ張られ切られた事がありましたよね。
  「あんたなんて死ねばいいんだっ」
 そう言われ包丁で足を刺された。
 私の右脚の太腿には、未だにその時の痕が残っているんです。
 必要ない事まで話そうとは思わないと思い、答えたんです。
 「必要な事は話してます」
 「親子仲良く話すものでしょっ」
 そのキーキー声が煩いと思いながら言ってました。
 「仲良くとは、どういう意味ですか?普通に話せば良いと思います」
 「何様のつもりっ!親に指図するなんて、子供の意味ないでしょ。子供は親の言われた通りにするものよっ」
 
 ご飯抜きだと言われ、部屋から出てくるなとも言われた。
 へえ、今夜の夕食は自分で作るんだ。良かった、この間の続きが書ける。
 私は、ちまちまと小説を書いていたのです。
 どこかに投稿する為ではなく、自分の気持ちを書いていた。唯一の、私の癒しだったんです。
 その小説ノートは高校3年間で段ボール一箱になった。

 高校生の時の成績は上クラスでは無かったけれど、中の上ぐらいで、まあ普通だった。
 その成績についてひと悶着がありましたね。
 「どうして、あんたはいつも成績が悪いの」
 「本当に勉強してるのか。部屋に籠って、何をしてるんだ」
 「寝てるんでしょ」
 人に家事を押し付けて、勝手な言い分だなと思っていた私は、反抗する事は許されない。
 反抗すると、また階段から突き落とされたり包丁で刺されるからだ。
 だから、こう返すことしか出来なかった。
 「ごめんなさい。もっと頑張ります」

 それだけで許されないのは分かっていた。
 「どこを、どう頑張るんだ。それを考えて、もう1回言ってこい」
 「あんたは、いつも同じ言葉しか言わないよね。今日はご飯無し。だから考えなさい」
 何をどう考えれば良いのか分からない。
 収まっていた自殺行為が再び目覚めた。
 でも、人間、簡単には死なない事は今迄の経験で分かっている。
 その代り、旅行に行っていた。
 どこでも良かった。
 でも、行った場所は長崎。
 その長崎で、私は唯一の人と会った。
 「あんたは、そのままで良いんだよ」
 そう言ってくれた人は、優しい手と目を持つ、1人のお婆さんだった。
 「よく頑張ったなあ。泣きたい時は泣け泣け」

 だけど、その人の孫は私を見ると言ってきた。
 「なに、人の婆ちゃんを捕まえて甘えてるんだよ」

 その人は私より4つ年下の男の子。
 「いいじゃない」
 「いくないっ」
 「私が、ご飯を作ってあげよう」
 「作れるのか不安だな」
 「まあ、見てなさい」

 その時から、そのお婆ちゃんとの付き合いが始まった。
 その存在を隠していた。
 ただ、ひたすらに自分を見てくれる。
 認めてくれる。
 それが、どんな意味を持つのか知らなかった。
 お婆ちゃんと一緒に話をして、一緒に寝て、一緒にご飯を食べる。
 「良いかあ。人間って良い事ばかりじゃないんだ。汚い事も知らないといけないし、お日様と水が無いと生きていけないんだ。
 だから、あんたは、そのままで良いんだよ。
 あんたのお日様と水は、どこにあるのか誰にも分からん。まだ見当たらないのかもな」

 畑をしているからこその、物言いだと分かった。
 そんな存在を知り、私に人間としての絆を教えてくれた。
 そんなお婆ちゃんが大好きで、そこに行くのが楽しみだった。
 私のお日様と水は、貴方だよ。

 ただ、毎回ヒッチハイクしながら行くのも無理がある。
 ある日、お婆ちゃんに話していた。
 そしたら笑ってくれた。
 「何時でも良いよ。来たくなったら来れば良い。待っとるさかい」
 「ありがとう」

 ここでは素直になれる。
 敬語を使わなくても良い。
 等身大の自分になれる。
 それが、どんなに嬉しい事か。
 そんな私に、お婆ちゃんはよく言ってくれてた。
 「人間って、誰かと比べて優越感持ちたい人が多いんだ。その代り、嫌な思いをして劣等感しか持たない人もいるんだ。
 だけど、劣等感しか持たない人を誰も見ようとしない。どうしてなのかは分からんが、比べなくてもいいじゃん。そう思ってるよ」
 その言葉に、どれだけ救われたか。
 無口では無いが、それでもお喋りが好きな人でもない。
 そのお婆ちゃんに私は心を許し、また癒されていた。

 お婆ちゃんの孫は私が来るのが分かるのか、いつも来ていた。
 「暇なの?」
 「あんたはサボリ?」
 「よう分かったなあ」
 弟と話をする事は無かった私は、この長崎のお婆ちゃんの孫とは話をする。
 まるで、本当の家族の様に。

 高校を卒業してからの進路決め。
 私は長崎に行くつもりだった。
 だけど、毒父母は大学へ行かせる気満々だったらしく、しつこく言ってきましたよね。
 「お前の頭だと無理だから、賄賂の利く大学が良いな」
 「短大でも良いと思うわ」
 「それか、〇〇〇へ就職というのもある」
 「割と近くにあるし有名な所だから良いかもね」
 等と言ってきていたが、ある日、毒父は言ってきた。
 「女は親の近くにいるものだ。それが普通の家だ」
 「隣の県でも良いわよ」

 私は何も言ってない。
 話しても無いし、一言も発言を許されてなかった。
 この2人が勝手に決めた事だった。
 推薦で決まった隣の県の短大。
 そこは寮があったので、せめてもの癒しだと思った。
 1年間、その寮で過ごしていた。
 だけど、私の頭では留年するしかなかった。
 毒父母は「せっかく入れてやった短大を留年なんて体裁の悪い事を、よくも平然としてくれたな」から始まり「どうして、こうなったのか反省して考えた事を言ってこい。合格の出る言葉を言うまでは何度も反省させるからな」との、お決まり文句が出てきたのは、どうしてですか?そんなにも私が憎らしいのですか?

 でも、私は寮生活で普通の家というものを知り、憧れていた。
 自分の暮らしてきた家は普通ではない。
 その1年間の寮生活で思い知ったものでした。
 
 私の思い描く普通の家とは、親は子に愚痴る事は無く、怒鳴る事もせず、威嚇する事も無く、敬語も使わず、優しく接してくれ、笑顔を見せてくれて、一緒に買い物に行ったり、子どもの話を聞いてくれ、友達感覚で居れる。
 そんなイメージを持つようになった。

 ただ、私には友達が居なかったから友達感覚と言うのが分からなかった。
 友達が出来そうになっても、すぐ毒父母は、その子の事を調べて「あの家は駄目だ。あんなのと付き合うんじゃない。こっちの体裁を考えろ」と言って、友達が出来そうだった子と別れさせられたのはどうしてですか?
 それでも短大時代は仲のいい3人が出来た。
 この4人で、ディズニーランドが完成した時、一緒に行ったのは嬉しかった。

 短大の寮生活は一年間だったけど、その後は短大近くの下宿で暮らしていた。
 編入して2年間を、そこで暮らしていた。
 寮生活をしてる間は、バイトをしてお金を貯めて長崎に行ったり、一人旅をしていた。
 下宿先では共同のキッチン、風呂、トイレだったけど、プライベートは守られていた。
 自分で決めた下宿先だった。
 毒父母は即座に反応してきた。
 「子供は親の言う事に否やを言う権利は無い。普通の家では、子供は親の為すべき事を忠実に守る事だ。お前は、普通の家で暮らしていたのではないのか?それとも寮生活をして堕落したのかっ」
 「こんな狭苦しくて、汚い所を良く見つけたものね。私たちの顔に泥を塗るつもりなのっ」

 それでも許可は出た。
 女子限定の下宿先だったからだ。
 住むのは私だ。あんた達では無い。
 本当に、その言葉を言いたかった。

 そのせいなのか、毒父は就職先を勝手に変えてくれたのはどうしてですか?
 すでに内定を貰っていた所を短大経由して断ったらしく、自分のコネで良い会社に入れたかったからだ。
 私は、狭苦しく窮屈な、あの家から出たかった。
 だから、せめてもの意趣返しで研修後も本社に留まりたくて頑張った。
 それなのに、実家近くの営業所での受付事務になった。
 ちょうど弟の反抗期兼受験と重なったせいか、私は祖母の家から通勤する事になった。
 毒母から、こう言われた。
 「今、あの子は反抗しててね。受験勉強させてやりたいから、お婆ちゃん家に行ってて」
 
 私としては、気が楽だった。
 弟と顔を会わせる事も無く、その会社を辞めるまで2年間、祖母の家で暮らしていた。
 穏やかに暮らしていた。

 会社では、事務なのに「お前だけ売ってない。ノルマを熟せて無いし、面接も受けてないコネ入社のくせに大きな顔をするな」と言われ続け、物を投げつけられていた。
 所長とか、他の営業の人たちは我関せずだった。
 その人は、私が所員の人と談笑してるだけで怒ってきてた。
 まるで毒父みたいな感じの人だったなと、今では思う。
 でも、その人は外面が良い人だった。
 辞めてから、毒父に言われた。
 「ノルマを熟せてなかったらしいな。何でだ。やっぱり、あんな婆さんと2人だけだと無理だったか。何かと不便だろうから、家に戻って来い」
 毒母からは、こうだった。
 「もう、近くに居る子供は、あんただけになったからね。荷物は部屋に運んだからね」

 そう言われ、家に寄ると私の荷物は段ボールの中に無造作に押し込まれていた。
 私の小説ノートは。。。
 段ボール一箱分あった筈だ。それは、どこに行ったの。
 「何処に行くんだっ」
 「他にも荷物あるし」
 「全部、持って帰った」
 「他にも」
 「無かった」
 いや、あるんだ。
 密かにお婆ちゃんの家に行くと、焼却炉からは煙が燻っていた。中を開けると、小説ノートが入っていた段ボールの燃えかすとしてチェーンが焼けずに残っていた。
 腹が立った。
 どうして、勝手に人の持物を、こんな風にするのだろう。
 これが、普通なのだろうか。
 私ならしない。
 絶対に、しない。

 それから私は毒父母を憎むようになった。
 何も言わない。何も聞かない、聞かれても、良い子ちゃんの優等生言葉しか口にしない。
 高校生までとは違う意味で、決心した。

 私は、お婆ちゃんに1ヶ月の下宿代を手渡していた。
 お喋りじゃなかった、お婆ちゃん。
 お婆ちゃんが死んだ後は、私の渡していた2年間の下宿代は遺品扱いになって、お婆ちゃんの娘4人が平等に分けたと、その後聞かされた。ボーナスが入った時、お婆ちゃんにプレゼントとして贈っていたハンカチとかポーチとかも遺品扱いだったらしい。
 貴様等…、私の思いを返せ!

 毒父が勝手に決めてくれた会社を辞めて清々した私は自分で次なる仕事先を探しました。
 家から出たくても出れないので、夜遅くまでやってる所。
 原付の免許を取り原付を買い、その原付で仕事場まで通っていた。
 スポーツセンターのコーチを正社員として働いていたら、案の定、毒母は愚痴を零していましたね。
 「せっかく家に居るのに、どうして夜遅くまで仕事するの。誰がご飯を作るの。いつまでも親が居ると思うなっ」
 黙っていたら、こう言ってくる。
 「何とか言いなさいよっ」

 そう言われると、返事をしていた。
 愚痴だけなら黙ってても何も言われなかったからだ。
 でも、私はこう返していた。
 「私のご飯は要らないから、2人だけの食事を作って食べて下さい」
 「なら、夕食を作って行きなさいっ」
 そう言われ、昼前に2人分の夕食を作り、仕事に行っていた。
 28日制で月末は連休になるので、その連休を利用して長崎に遊びに行ったり、神戸、大阪、名古屋へと一人旅の再開だ。
 宿は決めず、その日に決めていた。

 そのうちに縁談話を勝手に決めてきた毒父母に腹が立ち、見合いに行かなかったら、「親の顔に泥を塗るつもりかっ」と殴られ、その痣を隠しきれるものでなく、仕事を辞める事にした。その後、2本目の縁談に連行されたが相手から断られた。

 その後、次の仕事が決まるまで隣の市の駅ビルにある某スタジオでエアロビクスを習いに行き出した。
 身体を動かすことが好きで、仲の良い人が数人ほどできて一緒にディスコに行った事もあった。
 ダンス仲間と居る時は楽しかった。
 その一人に英会話サークルを紹介され行き出した私に、毒父母は愚痴ってきましたよね。
 「英語なんて必要じゃないっ」
 「それよりも良い人を見つけなさいっ」
 それでも私は続けていた。
 アルバイトをしながらダンスを習いながら英会話サークルに行きながら、就職先を探していた。
 そして、入社した。
 当然ながら、帰りは遅い職場だ。繁忙期は休みは取りにくいが、それでも定時の6時には終わって週2回の英会話サークルに通い、ダンススクールにも通っていた。
 ボーイフレンドも出来て、充実していた。その人と英会話サークルに行く様になり、帰りは送ってくれる。
 ある日、毒父母は言ってきた。
 「お前は、男と付き合ってるみたいだな」
 「何も知らないと思いなさんな」
 「何処に住んで、どんな男だっ」
 「帰りも遅いし、休みでもダンスとか行くし。家でご飯も作らなければ食べもしない。娘らしい事をしなさいっ」

 だけど、それだけで終わった。
 私としては「出て行け」という言葉を待っていた。
 そのボーイフレンドとは違う仕事が決まったという事で自然消滅した。
 私は、思いを引きずっていた。
 その後、結婚相手が英会話サークルに入会して告白されたのを機に付き合いだした。
 今度は親に気取られない様に。
 そして、結婚する前の年、香港でプロボーズを受けた。
 毒父母に会わせると、立派な経歴を持っている男に、ぐうの音も出てこなかった。
 言える言葉は、これだけだった。
 「年齢が離れている」
 「転勤族だなんて」

 そんな2人に、旦那は一言だった。
 「一緒に幸せになりたいと思ってます」
 私を守ってくれそうな体格をして、言ってくれた。
 その言葉が嬉しかった。
 ねえ、旦那さん。あの時の言葉を、もう一度、いや何度でも言って欲しいな。

 転勤族だから決めたわけでは無い。
 弱っちい身体よりガッシリとしている身体の方が安心感があるのは確かだ。
 プロポーズされた翌年の5月に結婚した。
 その年の12月に長男が生まれ、3年後に次男が生まれた。
 その次男が生まれた時、毒母は言ってきた。
 「あんたに子供2人だなんて育てられるわけないでしょ。今度は間違えない」
 そう言って私から長男を取り上げたのは、どうしてですか。

 育てようとしたらしい。だけど、2ヶ月も経たない内に戻された。理由は”懐かない”という事だった。
 だって、グランパとかグランマ呼びさせておいて、勝手に孫を手元に置いて孫として育ててるのではなく、自分達の子供として育てようとしてたのだから懐かないのも当たり前だ。
 次男は頭の回転が良いので、そんな兄を見て過ごしていた。
 よくある事だと思う。
 兄を見て、悪い事は真似しないってね。
 
 その長男が自閉症だと診断された時、毒父母から言われた言葉。
 「こんなのになったのは親として躾がなっとらん証拠だ」
 「親としての自覚が無いからでしょ」

 そう言いましたよね。
 泣きたかったけど、涙は出てこなかった。
 どうしたら良いのか分からなかったからだ。
 そんな時、次男が近付いて来た。
 「おかーちゃん。僕が居るからね。僕の方を見て。ね、いい子いい子してあげる」
 まだ3歳にもなって無かった次男に、そう言われて、いい子いい子と頭を撫でられた。
 その時に決心した。
 私は、あんた等の様に子どもを詰ったり殴ったり、また言葉の虐待はしない。
 次男を抱きしめていた。
 「ごめん、抱っこさせてね」
 「うん、いいよぉ」
 そう言って、いい子いい子と言われ続け頭を撫でられていた。

 1人だと限界はある。
 だから、仲間探しに出掛ける事にした。
 自分からカミングアウトしたのは、ご近所の方から言われたからだ。
 「自分一人でなんで難しいものがあるよ。今迄よく頑張ったねえ」
 そう言われ、思わず「ありがとうございます」と、泣いていた。
 その人と仲良くなり、次第に仲間の居る場所へと近づいて行った。

 そして、転勤する事3回目。
 横浜に来た時、私は自分から初めてカミングアウトしました。
 長男の小学校4年生の時、保護者会での時だ。
 帰り際、数人が近寄ってきた。
 「この学校には何人もいるし、皆が慣れてるから安心して良いよ」

 その言葉を言う為だけに近付いて来たらしいが、それでも嬉しかった。
 「子どもは子ども同士で仲良くするから、親も仲良くしないとね」
 「情報交換は必要だよ」等と、数人の方は言ってくれた。
 長男が小学校と中学校を卒業しても、彼女達とは今でも付き合いがある。

 そんな私に、毒父母は電話をしてくる。
 「何処で何をしてるのか」
 「お前は人付き合いが出来ないのだから、人付き合いの先輩としてアドバイスしてあげる」
 とか、
 「親とは、子供を一番に思い、家の事をしっかりとするもんだ」
 「離れていても親子なんだから、そっちから電話ぐらいしてきなさい」
 とか、
 「仲良くなった人は居ないのか」
 「いるとは思えないけど、どこで何をしている人なの?」
 とか、
 「親にも言えない人と付き合ってるのか」
 「黙ってると分からないでしょ」

 うざい。
 その時から私はパニック気味になっていたのを知ってますか。
 せめてもの救いは、見てないようで見てくれてる次男が側に居てくれる事だ。
 でも、子どもに押し付ける気はさらさらない。
 だから、インターネット病になってしまった。
 いや、たんにネットゲームの世界に浸ってしまったという。
 そのゲームで、私は唯一無二の親友とも言える人と出会った。
 彼女とは、ゲームを離れても色々とチャットとかメールでのやり取りをしています。

 自分から電話しようという気は、全く無い。
 毎年の様に、親にも中元や歳暮を贈ってこい。母の日や父の日も贈ってこい。盆、正月は帰省して、親子揃うものだ。
 そういう事を言われ、「はい、そうします」と頷くバカが何処に居ますか。
 何も言いたくない。
 出来るなら、心穏やかに過ごしたい。

 私は親を親として見てなかった。
 親とは、自分の権力を振りかざして子供をいい様に扱う。自分の体裁が悪かったら怒鳴り散らす。一言でも言おうとしたら「黙れ!」と言って押し入れに押し込める。笑いの無い、子どもとして見てくれてない時期を過ごしていた。

 そんな人間に、今度は「グランマが認知症になったから介護しろ」と言ってきましたね。
 当時、60歳過ぎの毒母は、まだしっかりと言葉を言えていた。
 「早く、帰って来なさい」
 「無理です」
 「良いから、早く帰れと言ってるのっ」
 「どんなに早くても、6時間掛かるので無理です」
 「仕方ないから、1時間でも早く帰ってくるのよ」
 「新幹線に言って下さい」
 「なら、そうするわ」

 こんなやり取りが何度も何度もあったのを知ってますか?
 本当に新幹線に言ったのがどうか分からないが、私は行く気無いから。
 だから断る言葉を探していた。
 その時から、私は「帰省」と言う言葉は使わなくなった。
 
 「行く」

 旦那の実家には帰省という言葉は言い易いが、自分の実家には当てはまらない。
 帰省?
 冗談じゃないでしょう。
 誰が、あんた達のいる所へ行くもんか。

 こういう時、転勤族って便利ね。
 でも、その当時、毒父は60代後半。
 まだまだ元気真っ盛りなお年頃だったのもあり、1人で介護していた。
 毒母は元気で動いていたから、一緒に旅行に行ったり、食事に行ったりしていたみたいでしたね。
 その事を、一々、電話掛けて言ってくるようになった。
 ほんとに、うざい。
 まだ要介護1だった軽度の時は、嬉しそうに声が弾んでいた。
 それが、3年もすると一気に要介護3になった。
 毒父の声のトーンが低くなってる。
 「お前は、母親が認知症になって介護をしないといけないのに、帰ってくる気は無いのか。こっちの言う事は聞こえてるから、まだ良いけど。もう、普通に喋れないんだぞ。頑張って介護している父親に、慰めの言葉を掛けようと言う気は無いのか。たまには帰って介護をしろ。そういう気が無いのなら帰ってくるな」

 挙句の果てには、こうも言ってきましたよね。
 「自分の母親が認知症になって大変だと言うのに、お前は何とも思わないのか。ろくでなしの人でなしが。親子の絆は無いのかっ」

 腹が立ったから、言ってやった。
 「親子の絆とは、どういう事ですか?」
 「やっと声を出したかと思ったら、それかよ。テレビでもやってるだろ」
 「テレビ見ないから、分からないです」
 「何で見ないんだ」
 「絆って、どういう事を言うのですか?」
 「決まってるだろ。親子として、親として、子供として信じ、信じられてるからこそ、そういう思いが沸き上がるものだ。お前には、親子としての絆は無いのかっ」
 「ありません」

 きっぱり言ったら、電話が切れましたね。
 だって、そうでしょう。
 お互い、そんな感じで育て、育てられた事が無いのだから。
 詰られ、殴られ、反抗しようとしたら力で捻じ伏せてくる。
 しかも、押し入れに押し込められて「反省文を考えろ。合格する文が言えるまで、そこから出さん」と反省文を強制されてきた。
 どこをどうやったら、親子の絆は生まれるの?
 ねえ、誰か教えて。

 それからは、あんまり電話が来なくなりましたね。
 仕方ないので新年の挨拶と、中元歳暮を贈って来た時の一年に3回、無理して電話していました。
 絶対に自分からはしてこない毒父は、こっちからしないと、正月を過ぎて怒りの文面が郵送で送ってきてましたね。
 『正月ぐらい、新年おめでとうの言葉も言えないのか』

 仕方ないので電話するが、決まってお小言から始まる。
 「まったく、お前は親を何だと思ってる。親が、どんなに過ごしてるのか。生きてるのか死んでるのか、それさえも聞いてこないのか」
 その言葉が、一番最初だ。
 その次は、こうだ。
 「普通の家なら、普通の親子なら、1週間に一度は電話してくるものだろう。どうされてますか?元気ですか?って。
 儂の友人たちは、孫からも電話が来るって言ってたけど、儂の所は全然だな。お前は、自分の子供に親の事をどんな風に言ってるんだ。孫に電話代われ」

 親について話なんてしない。
 私は、自分の子どもには何も話してない。ただ、祖母は認知症。それしか言ってないからだ。
 長男は自閉症だから本能のままに言葉を口にする。
 「グランパ、グランマ」
 そう呼ばされていた長男は、その2人が住んでいる地名で言い出す様になった。
 次男も右に倣えで、同じ様に地名で言い出す様になった。
 それで通じるという(笑)。

 孫が居る時は代わるが、居ない時は「居ません」と言っていた。
 だって、孫も何を言って良いのか分からないのは聞いてるだけで分かるからです。
 敬語のオンパレードだから。
 いつもは敬語を使わないのに、そういう時だけ敬語を使う、我が家の次男坊。
 長男はオウム返しなので、早々と受話器が私に戻ってきてました。

 そして、三言目。
 「まったく、話にならん。お前は、どういう風に躾てるんだ。こっちに帰ってこい。お前を再教育してやる。何とか言え」
 誰が、あんた等と一緒に居るもんかと内心思いながら、断っていた。
 「仕事もしているし、友人と離れたくないから」
 そう言うと、乗っかってきましたね。
 「友人って誰だ?どんな奴なのか調べてやる」
 その言葉を聞いて私は口を噤んだ。
 暫らく待ってると、意外な言葉が返ってきましたよ。
 「まあ、友人が出来るのは良いけどな。その友人に普通の家では、どんな事をするのか教えてもらうんだな」

 そう言われ、勝手に電話は切られた。
 本当に自分勝手で、自己中な人だこと。
 自分が世界の中心だとでも思ってるのだろうか。

 別に年賀状なんて必要ないよ。挨拶したい人にすれば良い。
 そう思っていたのに、ある日、こう言ってきましたよね。
 「信頼してるからこそ年賀状を送るもんだろ。待ってるからな」

 そう言われた。
 へえ…、それで良いんだ。
 なら、私は送らない。
 まったくもって信頼してないからだ。
 それとも、この毒父は信頼されてると思ってるのだろうか。
 こんな大馬鹿な奴の家で30年近くとは言え、過ごしていた自分が情けない。

 そんな子どもを、金で操ろうとしている。
 子どもに金を渡して、自分の言いなりにしようとしているのだ。
 子どもは言いなりにならない。部下とは違う。そうは思わないのか。
 そんなやり取りが何年も何年も続きましたね。

 その内、体調不調を電話で言う様になりましたね。
 嫁にも電話していたらしいが、私と嫁には全く別な話をしている事が判明しましたよ。
 だって、私、弟のお嫁さんとはLINEで繋がってるんです。
 お互い、それで済ませている。
 愚痴ったり、情報交換したり。

 毒父の80歳になるから年祝いをして欲しいと連絡をしたみたいですね。
 それって自分から強請る様なものか。違う気がするのだけど。

 嫁の方にと言うか、息子にはFAXで届いたけど、私の方には数日後、郵送で届きました。

 その頃、私はパート仕事が面白くなっていた。
 もしかしたら1人で任されてたかもしれないという所まで、きていたのかもしれなかった。
 そんな時に、年祝いをと手紙が着たのです。
 私は義妹にLINEで語っていました。
 ”そんなのは子どもが勝手に祝うものでしょう。どうして強要されるのか分からない”
 彼女の言葉は、こうだった。
 ”私も、そう思います”

 でも、その80歳の年祝いは決行された。
 誕生日を前倒しで、正月にしたのだ。
 弟家族と認知症の毒母も合わせて、計8人で毒父の年祝いをホテルでしたのだ。
 目出度くも無いのに、おめでとうと言わないといけないだなんて。
 実に、腹立たしい。

 それが、数年後。
 今度は”77歳になった母の年祝いを”と強請ってきた。
 だけど、それは叶う事は無かった。
 私の通院状態もあるが、義妹の体調不良の事もあったからだ。
 こんな風に思う私って捻くれてますか?
 でもね、私だけではないと思うんです。

 要介護5になった毒母に対して、私は可哀相だとは思わない。
 毒父は可哀相だと言ってるが、その思いは分からない。
 毒父は、孫にあたる私の長男を例に出してくる。
 「自閉症は直るものだが、認知症は直る病気ではない。そんな母親に電話をしろとは言わないが、せめて介護している父親に電話する事は出来るだろう。毎日、介護は大変ですね。いつ死ぬのか分からない母を1人で介護だなんて、体調はどうですか。ちゃんと食べて、食べさせてますか。等と、色々と思う事あるだろう。どうして電話してこないんだ。物を贈ってくれば良いだけじゃないんだぞ。気持ちだ、そういった気持ちがないから電話してこないんだろうが」
 そう言うと、お決まりの言葉がきた。
 「どう思う?お前は、父親の事をなんと思ってるんだ。お前の気持ちを教えてくれ」

 そう言われ、やっと言葉が発せれるのだが、何も言いたくない私は一言だった。
 「自閉症は直るものではありません。一番、大切な事とは、その人を、普段から見て接して」
 「そうだろう。でも、お前は帰ってこないよな。それは、どうしてだ?」

 人の話を最後まで聞かない。
 そういった事が、一番嫌なんだ。
 「人の話を最後まで聞こうとしない人には何も言いたくないです」
 「なんでだっ!お前は、父親の事をそう思ってるのかっ。もう良い。お前の考えは昔と変わったみたいだが、考え直したら電話してこい」
 そう言って、電話を切りましたよね。

 昔の私は、殴られたくない、叩かれたくないという思いで優等生の言葉を口にしていた。
 だけど、人間は変わるものだ。
 あんた等は、私の長男が自閉症だと分かった時、どう言ったが覚えてますか?
 あんた等は、その時、私に、何て言ったのか覚えてますか?
 私は忘れない。
 「こんなのになったのは親として躾がなっとらん証拠だ」
 「親としての自覚が無いからでしょ」

 姑に言われるのは分かるが、その言葉を、あんた等に言われたんだよ。
 ああ、この人達は、私の事をそんな風に思ってるんだな。
 そう確信したね。

 自分の過去の栄光を引きずって、まだそれにしがみ付いてる。
 過去を過去として自分のものにしようという人間になれよ。
 人間は、過去を過去として切り離して生きていける者ではない。
 過去があるからこそ、現在の自分が在るんだ。
 過去の積み重ねが、人間を成長させるんだよ。

 毒母が亡くなるまで、本当に電話を掛けなかった。
 掛けると、すぐに小言から始まるからだ。
 それは義妹も同じで、声を聞きたくないと言っていた。
 それは私も同じだ。

 そして、「毒母が死にそうだから帰ってこい」という電話を掛けてきましたよね。
 義妹に連絡すると「お義父さんって嘘つくから信じられないです」と言ってましたよ。

 そして、
 毒母の通夜。
 まさかのピンク色の棺。
 しかも、内側には花模様が施されていた。
 そして、家族葬。
 一番驚いたのは、一時、映画で流行った「おくりびと」のオプション。
 家族葬で、毒母側の親族しか招待してなかった。
 本人曰く、「儂の方の親族は顔を見れば喧嘩だから、終わった後に言う」と言っていた。
 だが、言う気はないだろうと思っている。
 毒父の親族は金に目が無く貪欲で、色々とゴタゴタがあったからだ。
 片側の親族と子供家族の、10数名の通夜と葬式。
 葬式の喪主による挨拶で、こんな事を話されてましたよね。
 「自分は、妻に対して、こんな事をしました。綺麗で、お利口で頭も良くて何でもできる美人な妻を持てて、自分は幸せです。
 自分は、一人暮らしになります。自分は、体調に気を付けて生きます。今までは片割れである妻に力を貸して頂きましたが、今後は、自分に力を貸して下さい」

 「自分は~」という言葉が耳についた。
 どうして毒母の事を言わないのだろう。
 喪主の言葉というのは、亡くなった人の生前の事を言うのではないだろうか。
 違和感湧きまくりの葬式でした。

 横浜に帰宅すると玄関先に塩を撒き撒きして清めておいた。
 その日を境に、何故か私はよく眠れています。
 ぐっすりと眠って、途中何度も目を覚ましていたのが嘘みたいに、眠れるようになりました。

 そして四十九日の法要。
 法要の日にちがはっきりとしてなくて3月中旬に連絡したら、こう言われましたよね。
 「嫁から四十九日の日取りを教えて欲しいと言ってきたが、それっきり何も音沙汰がない」
 相変わらずな小言から始まりました。
 でも、私も、その四十九日の事しか頭に無いから黙って聞いていたら、こう言ってきましたよね。
 「母が死んで1人暮らしになって大変ではないですか、食べてますか?と言った言葉は無いのか。親の事をどう思っているんだ。あれから1ヶ月だぞ。普通の家なら1週間に一度は電話してくるもんだろ。お前は、親をなんだと思ってる」

 その言葉を聞いて、私は確信しました。
 決死の思いをして言った気持ちは届いてない。
 本当に、自分の欲しい言葉しか頭の中に入れたくないんだな。
 どういう思いで、私が親を切るという決断をしたことか。
 この人は、ある意味、お目出度い人だなと思ったほどでした。

 でも、はっきりと書こう。
 お互いがお互いを信じてないのだから、これ以上、寄り添う事は無意味だ。
 電話もしない。
 はっきりと、私は言った筈だ。
 でも、こう返してきましたね。
 「今は、寄り添うと言う気は無いんだな」
と言う言葉に対して、私は即答していた。
 「死んでも無いです」と。

 その四十九日の法要が終わった後、これからの事を話すという段階になって、いつものネチネチ言葉が出てきましたね。
 もう、それで帰りたくなってきた。
 案の定、弟は席を立とうとしているが、真っ先に座ったのは私の旦那。
 何で座るんだよ、こっちは話したくないのに。

 子どももいる前で、弟だけでなく私もきっぱりと言いのけました。
 しかも、弟はきっぱりと言い切った後、外に出ましたけどね。
 だけど、義妹が一人だと心配だから残ってましたよ。
 私が守る者は子どもと義妹だ。
 旦那には今迄の事を話してないから、初めて耳にする言葉の羅列を聞いたせいか、本心が聞けたのはありがたかった。
 しかも連絡先を教えてるし。
 私は教える気ない。
 家の番号でも教える気は無いのに、だから教える気は毛頭ないので、はっきりと言いましたよ。
 「お互いが信頼してないのだから、寄り添おうとは思っても無いです」

 だけど、すかさず言葉を発したのは意外にも旦那だった。
 「ここまで立派に育てられたのですから、とても素晴らしいと思います」

 そしたら毒父は、にこやかに返していた。
 「そうだろう。もっと言ってくれれば良いんだよ」

 だけど、旦那はそれ以上は何も言わなかった。
 まあ、普段は無口な人だから余計な事は喋らない人だ。
 しかも、「孫の自閉症は直ったか」と言われても、唯一対立した長男の自閉症診断後のやり取りがある。それを思い出したのか口にしかけていたが一言だけだった。
 「直るものではありません」
 それだけで、後は黙っていた。

 そして形見分け。
 欲しいとは思わない。
 だけど、金を目の前に出された。
 私は何も言わなかったよ。
 でも、法律で子供も貰えるというのがあるからね。
 「ありがとう」も、何も言わずに貰っといた。

 当然でしょ。でも、まあ貰っとく。次男の仕送りに当てさせてもらおう。
 「初盆の話になるが、無理に4人で行かなくても良いよ。だから、次男坊は行かなくても宜しい。なにしろ一番遠い所に住んでるからね。私一人でも十分だよ。行きたくないけどさ」と、思わず旦那に言っていたほどでした。


 私は、小さかった頃からずっと夢見てた事があるの、知らないでしょう。
 小さくても良いから、自分の店を持ちたい。
 これは、自分を見て欲しいという気持ちからだ。
 業種は、何でも良い。
 カフェでも花屋でも、本屋でも。
 とにかく、私はここに居ますよ。
 私を見てね、という願望なの。

 後は、私が死んだら墓に入れないで欲しい。
 旦那の墓でなくても良い。
 だけど、私の遺骨は空に帰して欲しい。

 弟は嫁に「海に」と言ったらしいが、私は「空に撒いて欲しい」と思ってる。

 自由に飛びたい、駆け巡りたい。
 誰にも、何にも縛られたくない。
 死んでまでも縛られたくないから。
 鳥のように、空を舞いたい。
 風に乗って、色々な国々や世界を見て回りたい。
 無理に転生の輪に入らなくても良い。

 どちらか一つでもいいので、夢が叶います様に。


 そんな私の思いの中、毒母の初盆が近付いてくる。
 日取りを電話で聞いた時、貴方は、こう返しましたよね。
 「親戚は呼ばない。お前のとこから3人と息子のとこから1人の、5人だけの寂しい初盆を迎える」

 土日だと思っていたのに、平日になっていた。
 寺でするのかと思っていたら、家でするらしかった。
 夕食は外で食べ、、話しをする為に家に。
 「亡くなって半年、なんの音沙汰もない」という話から始まった、毎度の愚痴が始まりましたね。
 「どう思ってるのか、それを聞きたい」
 そう言ってくるが、それって四十九日の時も言ってましたよね。
 「時間が経てば思いは変わるからな。どう変わったのか教えろ」

 金をばら撒けば自分の思い通りになるとでも思っているのか。
 しかも、中四国の豪雨の事を持ち出してくる。
 「他の奴からは電話とか来たけど、お前等からは来ない」 と言われても、テレビでは放送されなかった。
 関東と中四国では放送範囲と言うのがある。
 全国版で流れたと言うが、こっちは流れてない。
 もっぱら、呉、三原、倉敷の事ばかりだ。

 断水だなんて、正直言って、全く知らなかった。
 私の夫や弟の嫁も知らないって言ってるんだから、信じられない奴等だなと詰るの止めて下さい。
 しかも、その日は週刊誌を見せようとする。
 こんな週刊誌がインタビューしてる記事と、自分の家は違うという事を知らない毒父はこんな事を言ってきましたね。
 「これ見てみろ。普通の家では親の事を、こういう風に思ってるんだぞ」

 違うでしょ、普通の家ではないでしょ。
 毒父の独裁家は普通の家ではない!
 しかし、「話が長い」と私の長男が口を挟んだおかげで21時には、お開きになった。
 そして、翌日の初盆が終わると、話し合いの時になりましたね。
 「週刊誌見たか」という言葉から始まりましたね。

 毎度お決まりの愚痴から始まる。
 これのどこが話し合いだ。愚痴を言ってるだけじゃないか。

 挙句の果てには、こう言ってきましたよね。
 「なんで電話をしてこないんだ」
 「電話するには、色々とシュミレーションしないと出来ないんです。言葉を選んで、どうやれば喧嘩越しにならないのか、どうやれば良いのかと考えて、考えても尽きる事は無い」
 「なんだ、それは。気軽に言えるだろうが」
 「言えません。気軽な雰囲気で育ってきたわけじゃないし、こうやって話してる時も緊張しているんです」
 「それじゃ、電話はしてこないという事なんだな」
 「はい、そうです」
 「まったく、どうしてこんなになったのか。何か対応を考えないといけないな」


 対応を考えるだと。
 あんたは、自分の事を嫌いだと言われてる人間に対して、好きになって貰おうと思ってるのか。
 違うだろ。
 来年の1周忌で終わりにしたいと思ってる私の気持ちを、まったく知ろうとしない。
 それは、どうしてですか?
 自分以外の人間の思いを無視して、自分の支配下におきたいだけじゃないか。

 だから、息子は電話もしなければ行こうという気もしない。
 だから、娘は切ろうとしている。
 だから、孫も嫌がって来ないんだよ。

 「金をやったのに、初盆に来ない。まともに礼を言えないのか」
 「本人は一言も御礼を言ってないのですか?」
 「渡した時は、ありがとうと礼を言っていたが」

 そう言って愚痴ってるけど、孫だって色々とスケジュールはあるんだ。
 四十九日の時に、あらかじめ聞いていた。
 「その日は無理」だと言われてる。
 だから3人で行ったんだ。

 私の子は、あんたの息子より単純な人間なんだよ。
 深読みしないんだ。
 当の本人は礼は言ったけど、親も言うべきだろうと言われた。
 だけど、私は知らなかった。
 電話してこいと言われたが、「居るんだから聞けば良いです」と言って、その場で夫に聞いた。
 「貰ったのは知ってたけど、金額までは知らなかった。ありがとうございます」

 良いじゃないか。
 私が夫に「ありがとうと言って」と言ったわけで無いのは、自分の目で見て耳で聞いたんだから。
 当の本人も「ありがとう」と礼を言ったと言うなら、それで良いじゃないか。
 何を求めてるのか分からない。

 ねえ、何を求めてるのですか?
 私は、ただ穏やかに暮らしたいだけなんです。
 いい加減にしてくれませんか?




●みんなの「親への手紙」プロジェクト 10月31日〆切
みんなの「親への手紙」プロジェクト




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